ADELE

アデル 2017

千慶烏子著 ISBN: 978-4-908810-28-2, 978-4-908810-02-2

ヴィクトル・ユゴーの娘アデルの悲恋に取材した千慶烏子の長編詩篇『アデル』。その才能をして類稀と評される詩人の書き記す言葉は、あたかも暗室のなかの多感な物質のように、一瞬一瞬の光に触れて鮮明なイマージュを書物の頁に印しづけてゆく。そして恋の苦悩に取り憑かれた女を、その悲嘆に暮れるさまを、失意のなかで愛の真実について語ろうとするさまを、近接性の話法のもとで精緻に写しとどめる。傷ましいほどの明晰な感受性、あるいは極めて写真的なヴァルネラビリティ。

──そしてここ、ガンジーの浜辺でエニシダを挿した食卓の花瓶や静かに揺れるお父さまの椅子、その背もたれの縁に手を差し伸べて優しく微笑むお母さまの美しい横顔、もはや年老いて耳の遠くなったばあやがわたしを気づかって差し出してくれる洋梨のデセール、そのように取り止めもなく瞳に映るもののすべてが、海辺にせまる夕暮れの深い静寂のなかで、もはや決して繰り返されることはないであろう一刻一刻の美しい輝きをおびてわたしの眼の前に立ち現われたその瞬間、わたしは恋に落ちていることを確信しました。

* * *

本書は叢書『Callas Cenquei Femmes』の第一巻『Adele』の表題で2003年P.P.Content Corp.から出版された。叢書『Femmes』はそのタイトルに作者の名前が冠されているとおり、千慶烏子による「五人の女たちが語る五つの物語、五つの作品、五冊の書物」をモチーフにシリーズ作品として企画され、五作品のうち三作品が完成、出版されている。作品はいずれも単体で完結しているが、全作品を通して一つの方法論が共有されている。

叢書『Femmes』は、一人称の話法で「わたし」を語る女主人公を文学空間に登場させ、彼女のひもとく「語り=話法=物語(ナラティブ)」をテクストの舞台で上演するという方法が採用されている。この特殊な話法と「代理=表象=上演」をめぐる方法論に関して、千慶烏子は第三巻『クレール』に収録された批評で緻密な論考を展開しているので、ぜひ参考にしていただきたい。

計画された五作品のうち三作品が完成し、出版されているが、残りの二作品に関しては、計画が断念されたわけではなく、引き続き執筆・制作にあたることを千慶烏子は明言している。シリーズ制作中の2011年に東日本大震災が発生している。千慶は、彼自身の文学上のプロブレマティークよりも状況的問題に対抗する方法論の構築を優先させたのだと考えられていいだろう。第四巻『ベアトリス』に先だって、脱現代性の文学的方法論をめぐる『ポエジー・デコンタンポレヌ』が2015年に出版されている。

さて、ひとまずここでシリーズ作品の概要を終え、本書『アデル』に関して解説を進めたいと思う。作品はヴィクトル・ユゴーの娘アデルの悲恋に取材している。アデル・ユゴーについては、教養に富んだ読者の皆さんならば、フランソワ・トリュフォーの映画『アデルの恋の物語』でよくご存じかもしれない。本書の執筆にあたって千慶烏子がトリュフォーの映画を参考にしなかったと言えば嘘になるだろう。しかし、本作が映画から着想を得たとか、映画の翻案であるという指摘もまた現実とは著しく異なっていると言わねばならない。

この購読案内では、トリュフォーの『アデル・H』と千慶の『アデル』の基本構造を比較しながら、簡単に本書の独自性に関して読者の皆さんに提案してみようと思う。

まず最初に異なるのは、本書が言葉だけで成立していることである。そこには映像表現に見られる息を飲むような美しい映像もなく、観客を魅了して止まない美貌の女優も存在しない。しかし、読者はありありとそこに女主人公アデルの息づかいや戸惑い、心の揺れ動きを「見る」だろう。本書では、言葉が読者の心を掻き立て、そこにない映像を、そこにいない美貌の女を垣間見させるのである。それは、当たり前のことではあるが、文学空間の特徴である。

そして次に異なるのは、本書は一人称の話法で構成されていることである。映画の空間はカメラの持つ三人称の視点で構成され、女主人公を客観的に映し出すが、本書の文学空間では、女主人公アデルはみずからを語るのである。みずから語ることによって作品世界が構築され、展開される。彼女の目を通して世界は描かれ、彼女の言葉を通して彼女の内面が描かれる。それにもかかわらず、読者はそこに女主人公アデルの存在をありありと目撃するにちがいない。あたかも写真装置のファインダーを通して見るかのように、あるいは映写装置の投げかける光と影の映像に見いだすかのように、あるいは舞台装置の上にその姿を観るかのように。言うなれば、読者は「文学装置」を通して彼女の実在と真実に遭遇するのである。

千慶烏子は、先に挙げた第三巻『クレール』に収録された批評の中で、このシリーズ作品で共有されている方法論に関して「魂の劇場」という呼び方をしている。作品の中で「わたし」を語る女主人公の言葉に誘われ、その見えない姿を追いかけてゆくと、読者は非常に古層的で根源的な「魂の劇場」に行き当たるのだと千慶は言う。そして、目の前で劇場の幕が切って落とされるやいなや、読者は今まさにそこで上演されている演劇に遭遇するのである。本書に関して言うならば、読者の皆さんは「魂の劇場」でアデルのひもとく恋の物語を観劇してもいいだろうし、またカメラを構えてアデルの語るさまをフィルムに撮影してもいいだろう。そこは文学空間であるが、また劇場空間でもある。

もちろん、この「魂の劇場」は、われわれの心の奥底にあってわれわれに幻影を見させるファントームの空間、あるいは文学装置の表象作用を通して実現される夢まぼろしの空間であり、現実の空間でないことは読者の皆さんがご指摘するであろうとおりである。千慶烏子の文学空間は、このファントームの空間へと読者を誘い、われわれの心の奥深くに潜んでいる古層的な何かを舞台に上げるが、その文学空間は、まさしく「夢」のようにはかなく、上演される劇場空間も映像空間も存在しないのである。それにもかかわらず、われわれはそこに何かを見るのである。まさしく「夢」のように。

千慶烏子の提案する「代理=表象=上演」をめぐる文学空間に関して、この小文で読者の皆さんの興味を惹くことができたなら幸いである。また、本書が完全に独自であるだけでなく、完全に新しく、同時に非常に古層的でありかつ根源的な作品であることもご理解いただけたのではないだろうか。ぜひとも作者の名前を冠したシリーズ作品の巻頭を飾る本書をご購読いただきたい。(P.P.Content Corp. 編集部)

千慶烏子『アデル』電子書籍版解説  2017年08月

ADELE 2006

千慶烏子著 ISBN: 4-908810-12-5, 978-4-908810-12-1

明るさに対する憧れと暗さに潜むものに対する名伏しがたい畏敬――恋をする者はまるで写真装置の内部に眠るフィルムのように感じやすく脆い。誰もが知る恋の物語を繊細なテクストの舞台で上演する『CALLAS CENQUEI FEMMES #1 ADELE』。 ここでは、言葉はさながら銀の植物がフィルムに芽を吹いてゆくように、青々と多感に茂る。そして恋の苦悩に取り憑かれた女を、その悲嘆に暮れるさまを、失意のなかで愛の真実について語ろうとするさまを、近接性の話法のもとで精緻に写しとどめる。そして、テクストはカール・テオドア・ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』を文学空間のなかで再現しようとでもするのだろうか。読者はこれが映像でもなく、写真でもなく、「書かれたもの」であることに驚きを禁じえないだろう――。

わたしの心が出血する。昂ぶりもなく、傲りもなく、明るみをます光と明晰さのなかで、わたしの心が出血する。わたしの感受性はこの出血の始まりから終わりまでを、その刻々の移ろいを、信じ難い明晰さのなかで精確に捉え、鮮明に描写する。ある写真的な苦悩。──カラス・センクエイ・ファム第一巻『アデル』──2003年7月刊行。


千慶烏子『ADELE』CD版同梱パンフレット  P.P.Content Corp.編集部  2006年10月 (ISBNコードは2016年に振り当てられた)

ADELE 2003

千慶烏子著 ISBN: 4-908810-12-5, 978-4-908810-12-1

第三期Vernissageは『CALLAS CENQUEI FEMMES』と総題してVOL.11からVOL.15まで届けられる。

まず最初に、これまで展開されてきたVernissageと今期との相違点をお知らせしておきたい。これまでのVernissageは一冊の書物の分冊ないしはリモンタージュとして配本・配信されてきたが、今回は「叢書」として各号を独立した一冊の書物として刊行しつつ、最終的に五冊の書物の総和からなる『SERIE CALLAS CENQUEI FEMMES』を刊行することになる。Vernissageはもはやその名ばかりを残すものとなったとお考えいただいてよい。第二に、今回からはCD-ROMを配信・配本の中心に据え、われわれの数値的環境におけるマルチメディア性を存分に活かした映像と音楽の複合体テクスト・コンプレクス(テクストを中心とした映像と音響のマルチメディア的複合体)をわれわれの数値的書籍の正規版に据えることに決定した。われわれの世紀の数値的空間をマルチメディア的と捉えることに対して詩人は頑強に抵抗してきたが、ようやくこれに対しても同意を示す余裕が出て来たと言える。それは前著『Ta,Da,Ca』四部作において詩人が陥った「喪」がいかに深甚を極めたものであり、またこの「喪」に対して詩人がいかに真摯に向き合ったかを証明するものであると言えるだろう。新しいメディアの誕生はつねに「喪」とともに始まる。この点を理解していただくならば、『Ta,Da,Ca』においてしばしば指摘される音のない画面の退屈さ、ほとんど亡霊のごとく現われては消える映像の単調さそれ自体が、新しいメディアの誕生とともにある「喪」についての貴重な証言となりえていることにお気付きいただけるはずである。そして、今期叢書『CALLAS CENQUEI FEMMES』は、詩人の「喪」からのゆるやかな回復と帰還の過程にふさわしく、プログラムには大胆に映像と音楽と色彩が導入されることになった。さまざまな仕掛けが工夫されているので、一冊の書物として、またマルチメディア空間のプログラムとしてお楽しみいただきたい。是非とも読者は性能の良い外部スピーカー・システムを設置して、音響と映像の融合も楽しんでいただきたいと思う。

さて、本書はヴィクトル・ユゴーの次女アデル・ユゴーの悲恋に取材している。アデル・ユゴーに関してはフランソワ・トリュフォーの映画「L'Histoire d'Adele H.(邦題『アデルの恋の物語』)」が有名なこともあり、知る人も多いだろう。ただあらかじめ誤解を招かないように申し添えておくならば、本書は完全に詩人の独創によるものであり、構成・主題・細部の展開等、すべての面において映画のシノプシスとは完全に異なる。プレテクストに忠実なトリュフォのアデルに対し、千慶のアデルはむしろその「Dramatis Persona」に忠実であり、史実に基いた固有の名を持つヒロインである以上に、われわれの内密の「魂の劇場」のなかで亡霊たちが身にまとい、演じる仮面劇の「仮面」である。千慶のテクストはこの「仮面」から発せられる実に繊細な、そして実に甘美な恋の亡霊のパロールを、きわめて繊細で感受性に富む詩人のエクリチュールのもとで再現し、言語空間の舞台の上に乗せていると言うことができるだろう。むろん、このような亡霊たちの劇場、仮面によって演じられる舞台などは存在しないと言うこともできる。けだし、それは詩人のエクリチュールにひもとかれて初めて存在へと至らしめられるのである。

さて、このようにして繰り広げられる悲劇についてだが、一方でそれは、アデルという恋に取り憑かれた「女」の恋の悲劇、呪われた恋の物語という側面を持つと同時に、またもう一方で1840年代から1980年代の想像力に貢献した表象空間「写真」と「印刷」の「喪」に対して営まれる「喪の戯れ」としての「Trauerspiel(バロック的悲劇)」という側面も併せ持つということに読者の注意を喚起しておこう。アレゴリーは互いに他を照らし合い、物質的な感受性について、また物質的な愛がはらむその悲劇的な諧調について、まさに息を呑むほど美しいイマージュが随所に散りばめられており、読者は、アレゴリーの舞台の上で、恋の悲劇と「喪の戯れ」が実に精緻に織りなされ、繰り広げられてゆくさまを目の当たりにするにちがいない。

そしてもうひとつ、この書物が「物語」ではないことにも読者の注意を促しておこう。詩人は、この誰もが知る恋の物語をひとつの「物語」として読者の前に呈示しようとしているのではない。物語としてのアデルはこの書物がひもとかれる以前に始まっており、そしてこのディスクールが始まる以前にすでに終わっている。ここで詩人が試みようとしているのは「出来事」の連鎖からなるひとつの「物語」ではなく、むしろニーチェの言うアルカイックな意味におけるドラマ──反復され、再現され、しかしながらその都度われわれを魅了し、その都度われわれに新しい表情を見せるドラマ──としての「詩劇」なのである。実に、ロラン・バルトの言うとおり、恋とは反復されるドラマである。詩人は、この恋というドラマの核心部にある劇的なエセンスを、繊細で残酷な彼のエクリチュールを駆使して、ひとつの壮麗な詩劇としてわれわれの前に呈示しようとしているのだと言うことができるだろう。そして、この何重の意味にもおける「悲劇」こそがこのテクストの主役であり、かつ舞台なのである。

また、ここで千慶のテクストは、書くことで思考を掘り下げてゆこうとする深度への傾きよりも、すでに得たものを惜しみなく読者に提供しようという呈示への欲求と読者に向けてのアメニティに支えられていることに読者はお気付きになるはずである。それはまさにこの詩人が前著『Ta,Da,Ca』で遭遇した「喪」からの回復期にあるということをわれわれに意識させる。テクストは、この詩人が本来持っていたのびやかな軽やかさを取り戻し、しかしながら恣な軽快さに流れることなく、また過度にその美意識に固執することもなく、節度ある振舞いのもとで、この詩人独自の繊細で甘美な文学空間を立ち上がらせている。それはあたかも初めてこの詩人が彼の才能(ギフト)の有益な活用法を見出したかのようであり、また一つの「喪」を過ぎ越したことで彼に与えられた才能の力をあらためて発見したかのようでもある。『Ta,Da,Ca』で遭遇した「喪」は、彼に表象空間の再確認へと赴かせたのだと言えるかもしれない。多様な話法と洗練された語法のもとで構成されるテクスト空間の構造は、より劇的な要素を好むようになったとは言え、以前よりも安定さを増し、そして何よりも読者の読むという行為を歓待している。そこには、いかに不可能なものであるにしても、彼が書く人である限りにおいては、書かれたものの表象空間を擁護し、支持する責務があるという強い自覚が窺えるにちがいない。そしてこの詩人の明確な意識と自覚に支えられてテクスト空間は立ち上がり、彼が支える空間に実に美しくアデルは登場し、また実に美しく彼女の恋の悲劇をみずからくりひろげてゆく。あとは、この恋に取り憑かれた女アデルの導くがまま、読者は本書をひもとかれるがよろしい。ともあれ、回復期の詩人が繰り広げる、息を呑むほど美しい恋の詩劇を読者は存分にご堪能いただきたい。

* * *

本書を含む叢書『CALLAS CENQUEI FEMMES』の予約購読をお申し込みの方には『#1 ADELE』から『#5 JEANNE』までの五冊と『SERIE FEMMES』をあわせて全六冊お届けいたします。なお、表題・内容・配本の順序は、予告なく変更になる場合があります。あらかじめご了承ください。価格CD版揃価12,000円 ESD版9,800円(ともに消費税・送料込み)。


千慶烏子『ADELE』初版CD版購読案内  P.P.Content Corp.編集部  2003年07月 (ISBNコードは2016年に振り当てられた)

FEMMES 2003

千慶烏子著 Callas Cenquei Femmes Catalogue

CALLAS CENQUEI FEMMES ──女たち。

われわれ編集者に手渡された詩人の覚書には、JEANNE、ADELE、CLAIRE、DELTA、BERNADETTEとあたかもモードの最前線で美しいポーズを取る女たちのように、あるいはいかがわしいポルノグラフィに登場するどこか不吉な女たちのように、あるいはまた、無縁の墓標に刻まれた決して明かされることのない歴史と記憶の伝令者のように、ファミリー・ネームを持たない女たちの「名」だけが記されています。

これらの女たちは、詩人の地獄巡りの旅からは連れ帰ることができず、しかしながら彼のテクストのなかにはありありとその美貌をあらわす断片と化した詩人の妻なのか、それとも彼の美貌とうりふたつの美貌のもとでおたがいの性と名前を交換し合う詩人の双子の妹たちなのか、あるいは彼の厳格な掟のもとで常に不可能なものへのやるせない欲望を訴えてやまない背徳的なまでに美しい詩人の娘たちなのだろうか。──他者の欲望に合わせて作られた名前の一定しない増殖。危機の奈落から浮上してくる倒錯的な天使。「アレゴリーの勝利」の最も貴重な獲物。死を意味する生。カラス・センクェイ・ファム──女たち。


『CALLAS CENQUEI FEMMES』は2003年夏より五冊にわたって刊行されます。現在ご購読をお申し込みの方には『#1 ADELE』から『#5 JEANNE』までの五冊と『FEMMES (SERIE)』をあわせて全六冊お届けいたします。価格 CD版揃価 12,000円 ESD版揃価 9,800円(ともに消費税・送料込み)。

各書の販売はそれぞれの書籍の刊行と同時に開始されます。一部 2,100円~3,150円(予価 税込価格。送料は別途申し受けます。)


叢書『CALLAS CENQUEI FEMMES』カタログ  P.P.Content Corp.編集部  2003年07月

FEMMES 2003

千慶烏子著 Callas Cenquei Femmes Catalogue

小説の解体という二十世紀の文学の冒険のなかで登場してきた「テクスト」という概念は、われわれの世紀のメディア・テクノロジーの進化のなかで、新しい文学形式の創造と書物の解体およびその再創造に取り組もうとしている。われわれは二十世紀の文学の冒険を引き継ぐこの二十一世紀の文学の冒険をテクスト・コンプレクスと名付けようと思う。それは、形式的に規定するならば、画面という数値的な表象空間におけるテクストを中心とした映像と音響のマルチ・メディア的複合体と規定することができるだろう。だが、それはある芸術形式に対して与えられる名ではない。むしろ、文学の「冒険」に対して贈られる名なのである。

テクスト・コンプレクスがわれわれに先立つさまざまなマルチ・メディア・プロダクツと決定的に異なるのは、なによりもまず、それがわれわれの新しいメディア・システムにおける「文学」の冒険であることである。われわれは好んでみずからとは異なる表現形式・表象芸術を取り入れてゆくであろうが、それは、文学が、文学の問題として、しかも共通の空間で、他者と対話することを望んでいるからである。われわれは、言語にとっての特権的な圏域の埒外に出ようと思う。その上で他者と対話しようと思う。それはわれわれにとって極めて無防備で危険な状態を要求することになるだろう。おそらくわれわれは裸にされるだろう。われわれはグーテンベルグの発明以降培ってきたわれわれの自負を粉々に打ち砕かれるだろう。だが、この危険で無防備な状態における対話こそ、われわれが望むところのものであり、それは、みずからの領域に他者を招いて行う対話よりも、より多くの実りをもたらしてくれるにちがいない。われわれはみずからの領分に他者を招くのではない。みずから出向いてゆくのである。それはまさに文字どおり冒険なのである。そしてこの「文学の冒険」のなかで行われる越境と横断の過程そのものを、またそこで行われる対話そのものを、あるいは失敗に終わり、無惨な結果を残すのみとなった試みそのものを、われわれは文学の問題として取り扱い、思考し、そしてその財宝と収穫を持ち帰りたいと思うのである。

テクスト・コンプレクスは、新しく発見された航路のように、異なる言語と異なる貨幣価値を持つ芸術形式の集合的な交易を促進することに貢献するだろう。このことに対するわれわれの興味は尽きない。しかしながら、最も重要なことは、文学の新しい展開と提案であり、ひいてはすでに完成したメディアである書物とすでに成熟したメディア・システムであるパブリケーションの解体およびその再創造にある。

われわれの世紀の数値的空間において、あるいはマルチ・メディア的空間において、今後さまざまな文学の試みが行われ、またさまざまな試みが忘れ去られてゆくだろう。この忘却は冒険である限りにおいては宿命的に引き受けざるを得ないところのものである。しかしながら、われわれは陸続と続くであろうこれらの試みに対して、またたちどころに忘れ去られてゆくであろうこれらの試みに対して、ひとしくテクスト・コンプレクス(テクスト複合体)の名を贈ろうと思う。それは、命名においてこれらの冒険を存在たらしめる記銘の行為であり、ひいてはこれらの冒険に記録と歴史的展開を呼びかける零度の行為である。

われわれが今いる場所は、丘を背にして西に展けるリスボンの港である。テクスト・コンプレクスは、新しく発見された航路であり、新しく発見された大陸であり、またその地で行われる血液の混淆であり、そしてそこから持ち帰られる珍しい種類の品々であり、不可能なものを求めて海を渡る人びとの果てしなき営為であり、無駄に終わったいくつもの航海であり、にもかかわらず未来において発掘されるであろう冒険の数々であり、そしてそれらのことごとくを称えて大西洋を指差す航海者たちの壮麗なモニュメントなのである。(千慶烏子 2003/07/23)


叢書『CALLAS CENQUEI FEMMES』緒言「テクスト・コンプレクスについて / 新しい書物と文学の未来のために」 2003年07月

BOOKS

千慶烏子『アデル』

アデル

千慶烏子著

ISBN: 978-4-908810-28-2, 978-4-908810-02-2

海辺にひびく鳥の声を美しいと思った。頬を撫でて行き過ぎる潮のかおりをいとおしいとわたしは思った。もう二度とパリに戻ることはないかもしれないというわたしたち家族の深い絶望の色で、瞳に映るものすべては暗く沈んでおり、また、夜ともなればいつも父を苦しめる亡姉レオポルディーヌの痛ましい記憶にわたしたち家族の思い出は逃れようもなく囚われており、わたしたちは、パリを遠く離れた小さな島の小さな街で息をひそめるように深い喪のただなかにいた。しかし、海辺にひびく海鳥の声を美しいとわたしは思った。頬を撫でて行きすぎる潮のかおりをいとおしいとわたしは思った。この肌にふれる海のひびきが…(本文より)

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千慶烏子『デルタ』

デルタ

千慶烏子著

ISBN: 978-4-908810-26-8, 978-4-908810-04-6

この海に終わりがあることをわたしは知っている。でも言わない。あの空に限りがあることをわたしは知っている。でも言わない。夕映えにかすむ希薄な空を染めて遠く沖合いに沈もうとするわたしたちヘスペリアの太陽は、本当は太陽ではなく、太陽の廃墟だということをわたしは知っている。でも言わない。言わないのは禁じられているからではなくて、誰もわたしに聞こうとしないから。訊いてくれたら話してあげるかもしれないけれども、誰もわたしに聞こうとしないから。永い永い航海の果て、弔いの歌もなく死んでいった男たちのことをわたしは言わない。もはや忘れられて久しい故郷の歌と残された子供たちの旅路の行方をわたしは言わない…(本文より)

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千慶烏子『クレール』

クレール

千慶烏子著

ISBN: 978-4-908810-06-0, 978-4-908810-08-4

思えば、あの日はじめてサーカスの馬屋で見た中国男がわたしに微笑みかけることをせず、罌粟の咲き乱れる裏庭の片すみで、弦が一本しかない中国のセロを弾いてわたしたち家族を感嘆させることもなく、柔らかいなめし革のような肌を輝かせてわたしの手にうやうやしく接吻することもなく、そのまま馬に乗ってこの小さな村から出て行ってくれたのなら、どれほどよかったことだろうか。葡萄摘みの女たちがまだ早い新芽をいらって夏の収穫に思いをはせるころ、時おり吹く風に初夏の緑が柔らかな若葉をめぐらせるころ、はるか西の果てに海洋を望むアキテーヌの領地に幌を寄せ、どこか物悲しいロマの男たちの奏でる音楽に合わせて…(本文より)

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