ADVENTURERS

冒険者たち

千慶烏子癌闘病記 その十八「イスキアの修道女たち」 ISBN: 978-4-908810-23-7, 978-4-908810-17-6

南イタリアのナポリ湾に面するイスキア島の城址には、戦禍を逃れてきた修道女たちの祈りの部屋がある。今から五百年も昔のことだ。崩れ果て、漆喰の剥がれ落ちた城塞の階段を下って、光の差さない石造りの部屋に入ると、そこにはセメントで固められた、扉のない西洋式のトイレのようなものが並んでいる。それは死の椅子、あるいは死者の椅子と呼ばれるものだ。まだ若い十六世紀の娘、見習い修道女のガブリエラはそこで沈黙の誓いを守りながら、亡くなった修道女たちのお世話をするのが仕事だ。少し年嵩のマリアに助けられながら、年老いて亡くなった修道女アンナの身体を清め、便座のように丸く穴の開いた石積みの椅子に老女の遺体を委ねる。地中海の空の下で、窓のない部屋には熱気がこもる。半月も経たないうちにアンナの遺骸は赤黒く膨満し、眼球は落ち、崩壊の様相を呈し始める。ガブリエラは沈黙の誓いを守りながら、祈りを捧げ、お勤めをする。風通しの悪い部屋は、悪臭が立ち込めており、不衛生で暗い。やがて、死の椅子に腰を下ろした修道女の遺体は、まるで赤ん坊を産み落とすかのように、腐敗して液化した内臓が脱落し、下の桶に溜まる。骨を洗い、桶を洗い、祈りを捧げる。お勤めを終えて、城塞のテラスに出ると、あまりにも明るい日差しにガブリエラは驚かされる。吹き渡る風は肌に心地よく、青く澄んだ海と空とが若い修道女の心を慰める。はるか彼方を飛ぶ鳥すらも美しい。しかし、運命とは残酷なものだ。地中海の南から吹く風が、砂嵐にまぎれて疫病を運び、城塞で祈りの日々を過ごす修道女たちを一人また一人と蝕んでゆく。修道女たちに優しく指導を授けていた修道院長カタリナが倒れ、手厳しいけれども心温かだったソレラ・ロベルタが倒れる。光の差さない風通しの悪い部屋は、まるで女たちが椅子に腰掛けてひそひそ話に打ち興じているかのように、死者たちの饗宴の場となる。そして、とうとう最後の一人となったガブリエラは、疫病に蝕まれて紅斑の浮き出た肌をいつもより念入りに清めながら、おぼつかない足取りで階段を辿り、苦痛に塗れて身動きの取れなくなった身体を死者の椅子に委ねる。隣にはつい先日亡くなったソレラ・マリアの亡骸が椅子の上で腐敗を始めている。美しかったマリアは固く口を結んで苦悶の表情を浮かべており、まだ若い娘の乳房も腐敗するのだということにガブリエラは驚く。宙を仰いで死者の椅子に腰を下ろしている修道女たちは、これまでもそうであったように、これからもまた、若い娘の辿る道しるべとなるだろう。敬虔な見習い修道女ガブリエラは、こうして、光の差さない暗い部屋のなかで、感染症の恐ろしい苦痛に苛まれながら、死が訪れるのをじっと待つのだ。肉体が崩落し、まるで脱糞するかのように溶け崩れた内臓が脱落して桶に溜まるのを、死者の椅子に腰掛けてじっと待つのだ。崩れ果てたアラゴン城址のテラスには潮風が吹き渡り、白い鳥がまばらに遠方を飛び交う。そのはるか上空には青い空が広がっている。夏でもないのに青いイタリアの空だ。夏になるとさらに青くなるイタリアの空だ。(続きを読む)


*死を見つめ、病を見つめ、これに打ち勝とうとする力――。読む人を圧倒する力強い筆致で癌という病と闘う日々を綴る千慶烏子の闘病記『冒険者たち』。闘うこと、負けないこと、生き延びることに向けての明確で頑強な意志の表明。絶賛発売中!(P.P.Content Corp.編集部)


*収録作品より
冒険者たち その一「事の起こり」
冒険者たち その二「未熟な兵隊」
冒険者たち その四「困り顔のマデリン」
冒険者たち その六「光の痕跡」
冒険者たち その二一「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」

BOOKS

千慶烏子『冒険者たち』

冒険者たち

千慶烏子著

ISBN: 978-4-908810-23-7, 978-4-908810-17-6

僕たちはさよならを言わない。僕たちは涙を見せない。再び会う日までさよならはお預けにするのだ。それが冒険者というものなのだ…(本文より)

――詩人が詩を書く意味とは何か。しばしば問われるこの抽象的な問いかけに対するきわめて具体的で明瞭な回答を読者の皆さんは本書に見いだすことができるだろう。本書にあるものをずばり一言で言い表すならば、それは「詩の力(poiesis)」である。それは、その詩的創造の過程において、詩人がみずからをその力によって目覚めさせ、奮い立たせ、立ち上がらせるような力であり、困難な状況を生きられるものにする力である。

闘うこと、負けないこと、生き延びることに向けての明確で頑強な意志の表明。全盛期千慶烏子を代表する傑作『冒険者たち』。

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千慶烏子『デルタ』

デルタ

千慶烏子著

ISBN: 978-4-908810-26-8, 978-4-908810-04-6

ヴィヨンよヴィヨン。おまえたちが太陽と呼ぶ、あの太陽の廃墟の太陽の、ファーレンハイト百分の一度の乱れがわたしの心臓を慄わせる。おまえたちが海洋と呼ぶ、あの海洋の廃墟の海洋の、高まって高まって高まって砕ける波の慄えがわたしの心臓をふるわせる──。

デルタとは誰か。それは謎めいたアナグラムなのか。それとも名前に先立つ欲望の集合的な属名なのか。きわめて今日的なカタストロフのもとでボードレールのファンタスムが、あるいはコルプス・ミスティクスのシミュラークルが、全く新しい光を受けて上演される。都市と売淫、断片と化した身体。あるいは石と化した夢。娼婦への愛は、果たしてヴァルター・ベンヤミンの言うとおり、商品への感情移入のハイライトなのか。ためらう者の祖国とは何か。 人でなしの恋とは何か。コギトの誘惑あるいは内省の悪徳とは。この美貌の女が語る「接吻で伝染する死の病」とはいったい何なのか──。予断を許さない大胆な構成のもとで繊細かつ多感に繰り広げられる千慶烏子の傑作長編詩篇『デルタの恋』。

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千慶烏子『クレール』

クレール

千慶烏子著

ISBN: 978-4-908810-06-0, 978-4-908810-08-4

思えば、あの日はじめてサーカスの馬屋で見た中国男がわたしに微笑みかけることをせず、罌粟の咲き乱れる裏庭の片すみで、弦が一本しかない中国のセロを弾いてわたしたち家族を感嘆させることもなく、柔らかいなめし革のような肌を輝かせてわたしの手にうやうやしく接吻することもなく、そのまま馬に乗ってこの小さな村から出て行ってくれたのなら、どれほどよかったことだろうか──。

Claireとは明晰にして澄明、清澄にして純粋。光輝くような美貌の女クレールが繰り広げる愛の妄執はかくも清冽であり、またかくも甘美である。千慶烏子のプネウマティクとバロッキズモは、われわれの記憶の古層にたたまれた愛の神話を、かくも現代的な表象空間のもとでかくもモダンに上演する。アレゴリーとは他者性(アロス)の言説。千慶烏子が舞台の上に女たちを呼び寄せて語らせる甘美な愛の言説とは、実にこのアロスの言説、他者性の言説に他ならない。神の女性的な部分。狂気のもうひとつの側面。全体的で命令的な連続する快感。実に愛の妄執とは、ジャック・ラカンの言うとおり「女として現われる」のである。──急迫するファントーム。明晰な愛のオブセッション。目眩めくテクストの快楽、千慶烏子の長編詩篇『クレール』。

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