VERNISSAGE

Vernissage Volume 1

千慶烏子著 ISBN: 978-4-908810-00-8, 978-4-908810-23-7

表題『Le Célibataire Broie Son Chocolat Lui Même』。千慶烏子がP.P.Content Corp.を発見し、その一連のプロジェ・ダールに提携することを求めた記念すべき第一の書。この後 P.P.C.C.社では、今日に至る「Project Vernisse(vernissage プロジェクト)」の計画がさまざまな契機を経てしだいに大きく発展し、詩人はより一層われわれP.P.Content Corp.との連携を深めつつ、そのなかで複数のメディアが横断するわれわれの時代の新しい文学にむけて、彼自身の文学と新しい文学のヴィジョンとを強靭に鍛え上げてゆくことになる。

本書は詩人のすでに完結していた作品『やや あって ひばりのうた』をリモンタージュしたものだが、P.P.Content Corp.ではそこに一切筆を入れることなく、鋏を入れ、リモンタージュし、図版を残酷に介入させ、プレ・テクストとは異なる一箇の独立した作品として、しかしながらプレ・テクストの読解可能性を大胆に押し広げるピエス(断片・作品)として呈示することが求められた。尊厳をもって残酷に介入せよ──この命題がプロジェ・ヴェルニセにおける詩人のほとんど唯一と言ってよい要求である。

内容は、時間を持たない密室のなかで「兄」と「妹」の繰り広げるインセスチュアスな性愛の姿が、甘美であり、繊細であり、しかしながら残酷でもある千慶烏子独自の筆致で丹念に描き出され、その全容は不可解な闇に包まれたまま、それ故にむしろ鮮烈な謎として、読者に突きつけられることになる。おそらくこれらのイマージュに、あるいはこれらの語のひびきに、読者はこの詩人のまさに独自と呼ぶにふさわしい才能と天稟とを見いだすことになるだろう。

先ほどピエスと書いたが、詩人は、作品と作品形成を独特の観点から考察しており、断片は一冊の書物を構成する部分に過ぎないが、しかしながらそれ自体で一冊の書にも比すべき全体であり(ピエス)、それはまた複数の書物にまたがって展開されてゆく系列(セリ)をも見えない水流のごとくその中に有していると言う。千慶が「行」をもってする詩人ではなく、独自の思考に支えられた「断章」をもってする詩人であることの意義は大きい。いずれにせよ、読者はこの書でいかような意味にもおける詩人の独自性と独自の詩人とに出遭うことになるだろう。──始まりを告げる第一の書。PDF版にて新装復刻。(P.P.Content Corp. 編集部)


2001年『VERNISSAGE』PDF版解説 (ISBNコードは2016年に振り当てられた)

Vernissage Volume 2

千慶烏子著 ISBN: 978-4-908810-00-8, 978-4-908810-23-7

表題『J'ècris Mon Nom』──。「わたしの名」を書き記すとはどういうことか。署名をするとはどういうことなのか。P.P.Content Corp.のプロジェ・ヴェルニセによってみずからのテクストに鋏を入れられ、ニスを塗られた詩人は、ここで新たにプレ・テクストにはなかったいくつかのテクストを書き足すことになる。それは彼の「名」の曖昧な性、テクストというものの曖昧な性、作品において重層する人称、製作主体における曖昧な「数」を介して思考される哲学的な断章である。

きわめてフェミニンなエクリチュールとそこに介入する怜悧な哲学的断章というスタイルで構成される本編は、第一期『Vernissage』偶数号および第二期『Vernissage(TaDaÇa 四部作)』 において積極的に展開されてゆくことになるが、そのまさに端緒と言うべき作品が、他者と触れ合う薄い皮膚のような「わたしの名」についての考察から始まっていることは興味深い。

「わたしの名」を記すこととは、わたしの名の皮膚のように薄い皮膜に他者の手が触れることなのか、それともわたしと触れ合う他者の皮膚のように薄い部分に「わたしの名」を刻み込むことなのか──。第一期『Vernissage』偶数号において、また「TaDaÇa 四部作」において、その後大胆に繰り広げられてゆく思考は(あるいは彼のエクリチュールそのものはと言ってしまってもいいが)、まさにこの他者と触れ合う皮膚のように薄い皮膜の感受性(impressionnabilité)に基づいてなされていることだけは確かであるにちがいない。

本書はP.P.C.C.社の刊行図書のなかではきわめて薄い部類に属する。だが、この薄さはやがて厚みを増してゆくものの、あるいはまた深みを増しててゆくものの「薄さ」であることをわれわれは忘れてはいけない。──もうひとつの始まりを告げる『Vernissage』第二の書。(P.P.Content Corp. 編集部)

2001年『VERNISSAGE』PDF版解説 (ISBNコードは2016年に振り当てられた)

Vernissage Volume 3

千慶烏子著 ISBN: 978-4-908810-00-8, 978-4-908810-23-7

表題『J'ècris Ton Nom』──。代理・表象関係ルプレザンタシオンの不可解な謎。「わたしはあなたの名前を書く」と題されたこの書物では、第一巻で不可解な謎として呈示された「兄」と「妹」のインセスチュアスな性愛の営みが、ふたたぴ残酷にかつ甘美に繰り広げられる。本書は、初版のP.P.Content Corp.によるリモンタージュを快く思わなかった詩人が、三たびそこに鋏を入れ、リモンタージュのリモンタージュとして自らのテクストを奪還する作業の結果、より詩人の企図に沿うものになったと言えるだろう。

第一号および本書で展開される「Serie Ma Soure Cadette(妹のセリ)」は、プレテクスト『やや あって ひばりのうた』の六つの系列(その詳細は P.P.C.C.社版同書末尾に掲載されている)の中の最も重要なセリのひとつと言えるだろうが、このセリの持つある種独特の複雑で微妙なニュアンスは、われわれの心の奥底に眠る「夜に属する部分」に甘美かつ残酷に触れる。それはサドの『ジュスティーヌ』、三島由紀夫の『サド侯爵夫人』と同様、常に異性であり、他者である「女」、あるいは時として愛の対象であり、また時として欲望の対象ですらある「女」という「異質な他者の舌」を借りて語るときに生ずる、ニュアンスの微妙な揺らぎであると言えるかもしれない。それは「仮面」から発せられる言葉であるのか、あるいは彼を映し出す「鏡」から発せられる言葉であるのか。代理・表象関係ルプレザンタシオンの不可解な謎を千慶烏子は実に甘美に描き上げる。

おそらくは詩人の書きつける言葉の微妙なニュアンスに気を取られて忘れてしまいがちだが、テクストは厳密な構成に則って企てられており、互いが互いの性を交換し、お互いの名前を取り替え、互いの口を借りて自らの欲望を語るきわめて鏡像的な関係のもとに、第三番目の他者の審級が見えない影のように兆す、その不吉な過程の導出がその核心にあると言えようか。それは、Vernissage Volume 4における「父の名」の審級であるだろうし、Volume 8におけるメディアという透明な制度であるだろうし、またVolume 10における「欲望という名の不実な神」であると言えるだろう。だが、本書におけるこの審級は、むしろより適切に「享楽のカフカエスクな猥褻の神」であると断言することができるにちがいない。千慶が描く性愛の甘美な描写のことごとくは、つねにこの第三番目の不可視の審級「猥褻な享楽の神」を導き出し、おびき出すための周到に配置された知的な罠だと言うことができる。

著者の再編集による新装・改訂版。PDFフォーマットにて刊行。(P.P.Content Corp. 編集部)

2001年『VERNISSAGE』PDF版解説 (ISBNコードは2016年に振り当てられた)

Vernissage Volume 4

千慶烏子著 ISBN: 978-4-908810-00-8, 978-4-908810-23-7

表題『Représentation』──。「書くことが見ることであり、ひもとくことがまたしたためることであるようなエクリチュールの時間」において立ち上がる眼差しはいったい誰の眼差しか──。愛の話法「la petite-bourgeoise」と哲学的断章からなる本編は、そのまま第二期Vernissage「Ta,Da,Ça 四部作」へと引き継がれ、さらなる発展を遂げることになる。だが、ここではまだ、むしろおだやかな、しかしながら陰翳に富む話法のもとで、一夏の愛の物語が静かにそして劇的にひもとかれてゆく。

「わたしは男に言うのだろうか。わたしは男に言ったのだろうか。ながらく鎖ざされていた夜のとばりがゆるやかにひらかれ、わたしたちの夏の光がしずかに抱き合って降りてくるのを、わたしはそこに見たのだと。海沿いの街の午後の光がわたしの口腔にとけてひらかれ、七月の樹木のゆたかな光がわたしのからだを明るませてゆくのを、たしかにわたしはみたのだと。」──発話者の審級で「わたし」を語るこの女は美しい。おそらくはどの女よりも美しいにちがいない。われわれはこの女に詩人の所在を見いだし、重ね合わせたい欲望にかられる。しかし、それは不可能な願いである。それは事実上不可能な事柄である。なぜなら彼はこの女ではないからだ。むろん、彼はこの女ではありえないからだ。むしろここで行われている詩人の営為は、この女の眼差しをしばし借受け、そして彼の 「わたし」をつかのまこの女に貸し与え、そしてその眼差しのもとでひもとかれてゆくイマージュを、きわめて感受性に富む彼のテクストのなかにしたためてゆく「書く」という不断の営為に他ならない。おそらくここで戸惑う読者は問うてしかるべきである。それでは真実とは何かと。書くことにおける真実の保証はいったいどこに委ねられているのか、と。おそらくわれわれは、その回答を次回作「Ta,Da,Ca 四部作」において見いだすことになるだろう。むしろここでは、詩的言語にきわめて映画的な話法とイマジネールが介入してゆくことの可能性と、その見事な成果をわれわれは愉しむだけでいいかもしれない。第一期全六巻のなかで最も美しく劇的な第四巻。(P.P.Content Corp. 編集部)

2001年『VERNISSAGE』PDF版解説 (ISBNコードは2016年に振り当てられた)

Vernissage Volume 5

千慶烏子著 ISBN: 978-4-908810-00-8, 978-4-908810-23-7

表題『Ça: Mon Corps』──。才能とは弾性である。本書で展開される不思議な撞着語法によるセリ「Schreberesque(その語から推察されるとおり、このセリはダニエル・パウル・シュレーバーの回想録に詩人がインスパイアされたものである)」は、散文詩における日本語の極北の表現のひとつであると言えるかもしれない。言葉の撞着が戦慄を呼び起こし、ひとつひとつの語義内容が、互いの語に深く干渉しつつ衝突しあうこのセリは、全体としてある種不可解で不気味な、あるいは謎に満ちた印象を読者に与えるにちがいない。しかし奇妙なことだが、その不気味さには、どこかわれわれに親しいユモリスティクな躍動が横たわり、われわれの心を不思議と弾ませることに読者は気付かれるにちがいない。興味深いのは、語義内容としては撞着し、干渉し、衝突しこそする夥しい語群が、千慶のひもとく散文律のなかでは、奇妙に生き生きとしたリズムを備えて躍動し、快活なダンスに興じていることである。詩人の天賦の才能のもとでは、これほどまでに倒錯的な言葉であってすらも、驚くほどリズミカルなのである。実に才能とは、その弾性にある。

このセリが鋏を入れられ、一冊の書物としてまとめられる以前のプレ・テクスト『やや あって ひばりのうた』においては、このセリは「妹」のセリの一部として、つまり「妹」の口を借りてしか自らの欲望を語ることができない「兄」の難渋する告白として、あるいは舌の縺れた告解としての位置を与えられている。千慶は言う。「欲望の対象は彼の欲望を能弁に物語るが、欲望する人は彼の欲望について何ら語る術を持たない。」詩人千慶の詩的営為は、つねにこの欲望する人の「口しいた口」に、こまやかな詩人の言葉を、つまり彼の口を差し出してゆく営為にほかならない。

本書の形成過程においてリモンタージュが行われる際、千慶は新たにテクストを書き加えることよりも、シュレーバーの 『回想録』 からの引用を適切に配置(コンフィギュレイション)することを望んだ。そこにはシュレーバーに対するオマージュもさることながら、むしろ、他者の言葉を横断することによって得た自らの言葉を、あえて他者の言葉の横断に晒すことでその強度を量りたいと思う、詩人の不敵な思惑があったからにちがいない。

P.P.Content Corp.社では、本書において引用を行う際、ダニエル・パウル・シュレーバーの『ある神経病者の回想録』(渡辺哲夫訳、筑摩書房、1990年刊)から採らせていただいた。著作権法上の引用の定義を逸脱するものではないが、優れた邦訳とご業績に敬意を表し、あらためてここに明記しておく。Vernissage 第五の書。倒錯する言葉の躍動の書。(P.P.Content Corp. 編集部)

2001年『VERNISSAGE』PDF版解説 (ISBNコードは2016年に振り当てられた)

Vernissage Volume 6

千慶烏子著 ISBN: 978-4-908810-00-8, 978-4-908810-23-7

表題『La Lutte Avec l'Ange』──。「天使との格闘」と題された本書において、千慶は「書くこと」をめぐる壮絶な、しかしながら不思議なまでの透明感にみちた思考を展開する。千慶烏子が「詩」といういわば永遠に到達することのできないトポスにむけて空疎な思考を企ててゆく詩人ではなく、「書くこと」のアクチュアリティにおいて、彼の思考を結実させてゆく詩人であることは、実に貴重である。

「書くこと」をめぐる千慶の思考は、独断にみちた憶測の陳述と言ったものではなく、むしろ彼の「具体性に対する最大限の敬意」を表明したものだと言うことができるだろう。「いま、ここで、わたしは書く」という時間に詩人は最大限の敬意を払う。そこでは何かしらある決定的な出来事が出来するのだ、と彼は言う。「書く」という時間において立ち上がるものに対して、最大限の敬意を払うことができないならば、「書く人」をすら畏れさせる決定的な出来事は出来することはないと彼は言う。むろん、ここで表明される敬意とは、そこに書きつけられたテクストに対する独善的な自負や、「書くわたし」に対する鼻持ちならない自己愛の表明などではない。彼が表明する敬意は、「いま、ここで、わたしは書く」という時間において立ち上がるものに対しては、たとえそれが天使であろうとも、自分は全力を尽くして戦うという戦意の表明なのである。この戦意の表明こそが、「書く人」をも畏れさせる決定的な出来事に対して払われる最大限の敬意なのである。

詩人は詩的言語に先験性も永遠も認めない。彼が認めるのは「書くこと」のアクチュアリティのみである。おそらく、千慶の詩的営為のことごとくは、必敗とも言える、この 「天使との格闘」であり続けるだろう。しかしながらわれわれは、この必敗の死闘に詩人が身を投じるかぎりにおいてこそ、他では見ることのできない真のアクチュアリティを彼のテクストに見い出すことができるのである。第一期 Vernissage 最終号──天使との格闘。(P.P.Content Corp. 編集部)

2001年『VERNISSAGE』PDF版解説 (ISBNコードは2016年に振り当てられた)

BOOKS

千慶烏子『ポエデコ』

ポエデコ

千慶烏子著

ISBN: 978-4-908810-05-3, 978-4-908810-27-5

自転車を押しながら坂道を登ってゆく彼女を見つけてマリと叫んだ。僕たちの夏の始まりだった。僕たちはその夏一緒に過ごそうと約束していた。誰にも内緒で、自転車を走らせ、一晩でいいから湖のほとりのコテージで一緒に過ごそうと二人だけの約束をしていたのだった。僕は彼女を見つけて名前を叫んだ。半袖のブラウスからのぞく肌という肌のすべてが美しく、額に結んだ粒のような汗までが美しかった。僕たちは夏の盛りの泡立つような虫の声に煽られながら、乾いた唇に唇を重ね、早熟な愛の感情におたがいの肌を寄り添わせるのだった。峠を越えると右手に湖を望んで下り坂を走った。コテージでは最初はどこかためらいがちだったけど、抱き合う以外に愛を伝える方法を…(本文より)

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千慶烏子『アデル』

アデル

千慶烏子著

ISBN: 978-4-908810-28-2, 978-4-908810-02-2

海辺にひびく鳥の声を美しいと思った。頬を撫でて行き過ぎる潮のかおりをいとおしいとわたしは思った。もう二度とパリに戻ることはないかもしれないというわたしたち家族の深い絶望の色で、瞳に映るものすべては暗く沈んでおり、また、夜ともなればいつも父を苦しめる亡姉レオポルディーヌの痛ましい記憶にわたしたち家族の思い出は逃れようもなく囚われており、わたしたちは、パリを遠く離れた小さな島の小さな街で息をひそめるように深い喪のただなかにいた。しかし、海辺にひびく海鳥の声を美しいとわたしは思った。頬を撫でて行きすぎる潮のかおりをいとおしいとわたしは思った。この肌にふれる海のひびきが…(本文より)

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千慶烏子『クレール』

クレール

千慶烏子著

ISBN: 978-4-908810-06-0, 978-4-908810-08-4

思えば、あの日はじめてサーカスの馬屋で見た中国男がわたしに微笑みかけることをせず、罌粟の咲き乱れる裏庭の片すみで、弦が一本しかない中国のセロを弾いてわたしたち家族を感嘆させることもなく、柔らかいなめし革のような肌を輝かせてわたしの手にうやうやしく接吻することもなく、そのまま馬に乗ってこの小さな村から出て行ってくれたのなら、どれほどよかったことだろうか。葡萄摘みの女たちがまだ早い新芽をいらって夏の収穫に思いをはせるころ、時おり吹く風に初夏の緑が柔らかな若葉をめぐらせるころ、はるか西の果てに海洋を望むアキテーヌの領地に幌を寄せ、どこか物悲しいロマの男たちの奏でる音楽に合わせて…(本文より)

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